「あなたのことが好きだから──」
その彼女の言葉に僕は起きた。最悪の目覚めだ。今日は8月30日。彼女が亡くなった日だ。
毎年、この日になると彼女のことを思い出す。いや、常に彼女のことは忘れられないのだが特にこの日は数々の思い出が蘇ってくる。名探偵として事件を暴き、その栄光の日々を送っていたことを。
朝食をしっかりと食べ、僕はスーツに着替える。白シャツに手を通してネクタイを締めジャケットを着る。私服とは違って気が引き締まり、いつもより気合いが入る。今日は特別な日だからこそそれがいい。まだまだ暑い日は続くけれど、これこそ彼女に対して失礼のない正装だと思う。僕はこの日だけは真摯でありたい。
電車に揺られること1時間。海が近くに見える駅に着く。ここに来るたび、潮の香りにもの悲しさを感じる。
花屋に寄るのも今年で何度目であろうか。毎年欠かさずにこの花屋で手向けの花を買っている。
「いらっしゃい、今年は来ないのかと思っていたよ。いつもので良いかい?こんだけ買っていってくれると彼女さんも喜ぶだろうよ。いつもありがとうね」
このおばあさんとも長い付き合いになる。気さくな感じでいつの間にか打ち解けるようになってしまった。
「ありがとうございます。しっかりと届けてきます」
花屋を後にした僕は長い坂道を登り始めた。彼女の思い出に想いを馳せる。
名探偵の最期の事件。そんな物語のことでしか起こらないようなことが彼女の身には起こった。あっけなかった。僕にはまだ彼女に伝えきれていないことがたくさんあったのに。
彼女のことを好きになったのは一瞬だった。その謎を解いた先に見える彼女の気遣い。事件をただのパズルのように解こうとしない。彼女なりに救いのあるように謎を解こうとする、その姿に僕は惚れた。最も僕の方は彼女のサポートをするばかりで、何の役にも立っていなかったと思うが。それでも僕は常に彼女の隣に居れたことを誇りに思っている。
そう考えに浸っているうちに彼女の眠る場所が見えてきた。
バケツに水を入れ、ブラシを持って運んでいく。安らかに眠れるよう大きな音を立てずに水をかけ丁寧に掃除をしていく。そしてお線香をあげる。この時間こそ彼女とまた繋がっているように感じられる。
「今年も来たよ。いつもいつも来なくて良いのに、とでも思ってくれているのかな。それでも僕は来るよ、絶対に」
もう届かないとは分かっているものの、どうしても言葉を投げてしまう自分がいる。
「そういえば、変な夢を見たよ。君から好きだと告げられる夢。本当にそう想ってくれていたのなら僕は嬉しいよ。もちろん僕も君のことが好きだ」
そう、好きだ。どうしようもなく彼女のことが好きだ。もう一度、彼女の隣で支えてあげたい。そんな気持ちで今も溢れている。
ひと通り終わり帰ろうとすると、珍しく客が現れた。
「ありゃ、誰もいないと思ったのによ。よりにもよってお前かよ」
アロハシャツを着てサングラスを頭にかけた胡散臭そうな男が現れた。腐れ縁にもほどがある。
「そう嫌な顔すんなよ。久々の再会なんだから喜ぼうぜ。三人で同じ釜の飯を食った仲なんだしよ」
そう彼もまた僕と彼女とともに事件解決に関わっていたひとりである。やたらと顔が広いため情報源としては助かっていたのだが、どうも腹の底が見えず僕としては苦手だ。
「そうだな。今日くらいは仲良くやってるところを見せるか」
「やけに素直じゃねーか。いつもいつも俺の言うことやることに突っかかってきたくせによ」
「うるさいな。彼女も静かに眠れないだろう」
「静かなのが似合う女じゃねーだろ、あいつは。いつも勇猛果敢に犯人に立ち向かっていってたじゃねーか。そんなところにお前は惚れてたんだろ」
「……!!!お前に言われると腹が立つな。でも、まあそんなところか」
「うわっ、本当に素直かよ。ここでドンパチやるのも俺としては歓迎だったのによ。まあ、いいよ。俺も静かにするわ」
そう言いようやく彼は黙り込む。静かに線香をあげ、目を閉じて何かを想っている。
「そういえば、なぜお前が来ているんだ?」
「俺が来ちゃ悪いかよ。俺だってあいつのことは忘れられねぇよ。やっぱり良い思い出だったんだよ。あいつとお前と俺で、活動していた日々がよ。まぁ、お前が今日来ているとは思わなかったけどな。こういうのはひとりでいたいものなんだよ」
彼もまた彼女に想うところがあったのだろうか。顔の広い彼にしてはひとりに執着するのも珍しいと感じる。
太陽の光に照らされきらめく海を静かに二人で眺める。あの頃は毎日のように事件に巻き込まれ忙しかった。そんな日なんてなかったかと思わせるほど静かだった。
「僕は彼女のことが好きだったんだ。今日なんて夢にまで出てきて彼女から告白されたよ。僕の願いが届いたかのように」
「夢は夢だろう。なんて野暮なことは言わねーよ。お前が好きでいるなら、あいつだってそうだろうよ。何だかんだでお前ら二人に俺は割って入れないようなところは感じてたからな」
彼も不思議と素直だった。潮風が僕らを凪いでいる。
「じゃあな、またどこかで会おうぜ。って言っても来年もこの日に来るんじゃねーぞ。全く、明日から新学期が始まるってのによ。生徒たちのやかましい顔拝む前に、お前の顔を拝むことになるとはな」
何か、おかしい。ここでそう初めて思った。
「ちょっと待て、明日から新学期って明日はまだ8月31日だろう?9月から始まるんじゃないのか?」
「何寝ぼけたこと言ってんだお前は?今日は8月31日だろうよ。ほれ」
彼にスマホを差し出される。確かにそこには8月31日と表示されていた。
「どういうことだ、僕は毎年8月30日にここに来ている。そして今日がその日だと思っている」
「どうもこうも、お前が単純に間違えただけだろ。今日は8月31日、夏休みの終わりだよ」
一日飛んでいる。そんなわけがない。一体何が起こっているんだ?
「まあ、一日くらい別に良いじゃねーか。それともあれか?良い夢見て一日寝過ごしたんだろ。そう考えるのがしっくりくるぜ」
言われればそうなのかもしれない。でも、一日中寝るなんてことがあるだろうか。前の日だって特別疲れていたわけじゃない。
「そう重く考えるなよ。しっかり休めたってことよ。お前は色々考えすぎなんだよ」
彼はそう言いながら手を振り階段を降りていった。
「そうなのか?そんな日もあるのか?」
僕は不思議でならなかった。ただ確かに彼の言うように僕に損はない。ただ一日寝ていただけだ。
「もし一日そうだとしたら僕が君のところに行っていたのかな。そこで別れが名残惜しくなった君は最後にあんな言葉を──。なんて僕の想像でしかないけれどね。残念ながら僕はまだそちらには行けないよ。君のあとを継ぎ、解決すべき事件はたくさん残っているのだから。もし君みたいに僕が最期の事件に巻き込まれたとしたら、その時は君が歓迎してくれると嬉しい。だから、長くなるのかもしれないけれど、待っていて欲しい」
そうだ。僕は彼女に負けないほどの名探偵になる。そしてその時はじめて追いつき、彼女に相応しい存在になれると思う。
だから、その時まで──
「そうね、あなたはいつもそういう人だものね。あーあ、あと何年待つことになるのやら。ちょっと今回は欲が出たのは失敗だったなぁ。やりすぎてしまったか。まあ、あなたが納得してくれたから良いけど。でも、私の気持ちだけは本物なんだよ」
おしまい