真賀田四季サーガと対比する『空の境界』

Twitterに書きなぐっていたものをまとめたものにしようと思って書き始めてみる。

多少ネタバレあるかも。

タイトルは書いたままであるけれど、実際には森博嗣的観点から見た『空の境界』ということを書こうとしてこういうことになっている。森博嗣であれば何回か読んでいるため解釈しやすいかなと思った次第である。なのでメインは森博嗣側になる。

 

そもそも真賀田四季サーガと呼んでいるのは私しかいないだろうと思っているので、それはなにかと述べておくとS&Mシリーズから始まる真賀田四季が登場する(関係する)すべてのシリーズのことを便宜的に読んでいる。具体的にはS&M, V, 四季, G, X, W, WW, 百年、のことを総称している。

 

で、ここからはTwitterに書いたことの焼き直しになっていくのだが、基本的には空の境界での登場人物との対比を取っていく形になる。

 

真賀田四季両儀式

このふたりは似て非なる存在であると考える。

すべてがFになる』で真賀田四季の魅力に初めて触れることになるわけだが、この時点ですでにその魅力に取りつかれるのである。しかし、面白いことにシリーズが進むにつれてその魅力というものが曖昧なものへと変化していきどんどん四季という存在がわからなくなっていくのである。それでもなお一冊一冊だけに限れば魅力は維持されているし、彼女の名前が出てくるたびに読者は手のひらで踊らされ狂わされるわけだが、シリーズ通して考えてみると結局彼女はいかなる存在なのかわからないのである。

一方で、両儀式は最初の時点で謎しかない存在でありわかりやすく魅力をまとったキャラではないと思っている。しかしながら、読み進めていくうちにそのヒロイン性というものがどんどん浮彫りにされていき、最後までたどり着くとメインヒロインたる振る舞いしかしていなかったと気づかされる。そう、普通の女の子なのである。

真賀田四季は一目で魅了するカリスマ的存在でありながら文章により肉付けされていけばいくほど本質が見えなくなっていくものであるのに対し、両儀式は全くわからない状態から世界観を理解しつつ読み進めるとその魅力が徐々に解体されてシンプルなものになっていく、という点で異なっているのであう。

四季はそれぞれの季節にある魅力を感じられるものの一年通した魅力は何かと言われればすぐには答えられない。式は方程式と捉えると最初はわからない変数を徐々に分解して解いていくことで解が求まりその魅力が伝わってくる。四季と式での対比である。

では、真賀田のほうで考えると勾玉というとらえ方をしたときに陰陽を表しており、これは両儀と意味が一致する。両儀のほうの陰陽はこれを式と捉えることで解が求められるようになりヒロイン性が浮き彫りになる。一方で真賀田の勾玉の陰陽は四季を繰り返し繰り返すことで性別および肉体を超越した存在へと導かれていく。実際に『すべてがFになる』のひとつのトリック部分は性別によることを利用しているところもあって、最初はまだ性別にこだわっていそうにも思う。これはシリーズ進みWとかWWシリーズではもうそんなものは興味ない、考えることでもない、という考えに変わっていると思う。四季が100年以上移り変わった先の考えである。『四季 春』『四季 夏』時点でも性別にこだわっていそうなので、やはり移り変わりどんどんよくわからない存在になっているかなと。

物語の軸に据えられた人物であることは両者とも変わらないものの、シリーズが進むにつれて捉え方が変わってくる、という点で似て非なる存在と考えた次第である。

 

黒桐幹也犀川創平

そんな彼女たちの魅力を語るに欠かせない男性からの視点を述べる。

黒桐幹也はあっけらかんとして何事にも動じない存在でだからこそずっと両儀式の横に並ぶことができ、それ故にわからなかった魅力がどんどん我々読者に伝わってくるのである。

犀川創平も何事にも動じない存在であることは同じである。彼自身も最初は真賀田四季の魅力に興味を持ち、会うことを切望していた。しかし触れていく内にやはり相容れない存在であることを彼自身も感じ、四季とは別の道を歩んでいると思う。実際、Gシリーズの犀川先生は全く事件を解くことに興味がない。解いていないわけではなく真相にたどり着くのは最速だが。だから四季は四季としてそれほど犀川先生の執心対象になっていないように思う。どちらかといえば西之園萌絵のほうに振り回され気にしていると思う。だからこそS&Mシリーズはラブコメなのであるが。

なので、ずっと横にいるか、興味対象から外れてそういう存在として傍から見ているか、であると思う。

 

西之園萌絵

犀川創平視点ではなく西之園萌絵であればどうか。彼女はもうずっと真賀田四季の影を追い続けていたと思う。四季に魅力は感じる、だが不気味すぎて理解できない自分がいるのが悔しくて彼女を理解しようと努めていたと思う。このあたりはS&Mシリーズで躍起になって事件を解決しようとする西之園萌絵の考え方に共通していると思う。この時点での彼女はわからないことに対してわかるところまで考え理解する姿勢を取っている。そんな彼女もシリーズが進むにつれて謎を解くことに興味が薄れていきGシリーズのある一冊の時点でもう吹っ切れるようになる。ここから先、萌絵もまた犀川先生と同様に理解したいとおもう対象から外れるのだと思う。おふたり末永くお幸せに。

この初期のころの萌絵のことは加部谷恵美に受け継がれているが、加部谷は四季とはそれほど関わっていないので萌絵ほどではない。事件に関しては解きたい気持ちが勝っていると思うが。それは"彼"と話したいがためか?。ここら辺は関係ないのでGシリーズを詳しく解体するときに任せるとして、とにかくシリーズ後期?にあたるGシリーズ時点でもう真賀田四季の魅力は明確には見えないものになっているのである。

 

以上です。ほぼ森博嗣のことしか後半語っていませんねこれ。

WWシリーズ新刊が2023年4月に出ます。

『君が見たのは誰の夢? Whose Dream Did you See?』

両儀式の分割された人格からこのタイトルを紐解くのも良いのではないでしょうか。