3月10日のおはなし

「試験終了です」

 俺はペンを置いた。中高六年間、学んできた全てをぶつけた二日間が終わり、そして長かった受験戦争にもついに終止符が打たれた。

 

 3月10日。今日は卒業の日だった。中高一貫で六年間通ってきた校舎とも今日でおさらばだ。この長い坂道を上るのもこれで最後だ。

 

「いよいよ卒業式。そして今日が合格発表の日だ。うちの学校も頑なにこの日から卒業式ずらそうとしないんだよな。お前たちも今日くらいは余計なことに気を取られずにその瞬間を待っていたいだろう?」

 今日はこのクラスの大半の生徒が受けている大学の合格発表の日でもあった。合格発表は12時。卒業式が終わったあとのことだった。

「合格かどうかが気になるところだと思うが、こればかりは仕方ない。まずは卒業式だ。

 段取りは──」

 そんなことを今は気にしている場合じゃないが、なぜかその内容は頭に入ってきた。あと数時間で進路が決定するというのに、自分でものんきなものだった。もしかしたら、その決定的瞬間が訪れるのを拒んでいる自分が心のどこかにいるのかもしれない。

 今年は体育館が修繕中のため、卒業式は講堂で行われる。本来であればひとりひとり壇上に上がって卒業証書を受け取ることになっているが、幅の狭い講堂ではそれが難しい。だから、名前を呼ばれたらその場で「はい」と答え立ち上がるだけだ。クラスの代表者ひとりがまとめて受け取ることになる。

 去年、在校生として体育館での卒業式に出席したときはこの卒業証書授与の時間が果てしなく長かった。ひとりひとり受け渡しを行っているのだから当たり前だ。しかも、壇上でふざける奴も出てくる。さらに式は遅れていくというわけだった。でも、そんな悪ふざけも最後と思うと少しうらやましくも思う気持ちもあった。今年は簡易的なものになってそんなことを仕掛ける時間すらないだろう。

「──というわけだ。では、今から移動する」

 担任が説明を終えると、ぞろぞろと生徒たちは立ち上がり教室を出ていった。

 

 卒業式を待っているとき、友人といつもと同じように他愛もない話をして過ごす。俺と同じように内心は不安なのだろうか。全くそんなことをおくびにも出さない。

 ああ、そうか。余裕なのか。

 俺は不安でいっぱいだったが、他の友人たちはきっと余裕なのだろう。ずっとA判定を取り続けてきている奴ばかりだし。全く必死で食らいついている俺の身にもなってくれよ。

 そうこうしているうちにようやく講堂へと入場することになった。

 

 卒業式中のことはあまりよく覚えていなかった。校歌斉唱はこれで歌うのが最後になるというのに感慨深い気持ちにもならなかった。徐々にその時が近づいてきていて、ますます気が気ではなかった。

 

 教室に戻ってきて、いよいよ担任の言葉も最後になる。

「人生は長い。この先のことを考えればこれからの一年なんてとっても短いものだ。たとえダメだったとしても、将来を考えれば一年かけて再挑戦すべきだと思う。ここで諦めるのは非常にもったいない」

 そんなことを言われても俺はもしダメだったらもう別のところに行くと決めていた。幸いにしてすでに合格している学校はある。もう一年で自分の学力が伸びるとも思えない。それくらい全力を出し切った。だから受かっているかどうかは本当にギリギリのラインだと思う。

 と、思っているが本音を言えばもう勉強したくないだけだった。周りにもおいて行かれたくない。早く大学生になりたかった。

「あとこれからはAIの時代が来る」

 そんなことを考えていると、唐突に担任の話の方向が切り替わった。

「良いか、仕事を奪われるような奴にはなるな。きっとAIはもっと優秀なものに発展していく。そんな中で我々ヒトができることをしろ。AIを超えるくらい優秀になれ。だから──」

 すると突然ひとりの生徒が立ち上がってガッツポーズしながら廊下に走り去っていった。何事かと思って時間を見ると、合格発表の時間を過ぎていた。隠れてスマホで確認したのだろう。

「全く、仕方がない……」

 というわけで次々に生徒たちはスマホで結果を確認し始めた。俺もすぐに確認した。

 そしてそこに番号はなかった。

 

「うわ、落ちたー」

「え?マジか!?」

 一足先に確認した俺は他の奴らにスマホを渡す。周りで持っているのは俺しかいなかった。

 その友人が手を震わせながら画面をスクロールしているのを見ていた。そしてすぐにそのお目当ての番号は見つかったようだった。

「あったわ」

「俺にも見せてくれ」

 他の友人も俺のスマホで番号を確認し始めた。結果は合格。俺以外の全員が合格だった。

 というわけで大学受験の長い戦いはこれで終わった。

 

「卒業旅行スキー行こうぜ」

 友人宅でピザを食べつつゲームをやりながら休みの予定を立てていた。しばらくは自由の身だ。これほど清々しい気持ちになるとは。

「良いね。いつにするよ?」

 こうして仲の良い友人たちとワイワイ過ごしながら、日は暮れていった。

 

帰りの電車に乗りメールを確認すると母から来ていた。

 

おめでとう。これであんたも大学生だね。

 

おめでとう、か。確かに新たな門出なのでおめでたいことではある。でも、どこか皮肉なように感じられる。帰ったら文句のひとつでも言ってやろう。

そう思い見ていたスマホの画面から顔を上げると、電車内には人がいなくなっていた。どういうことだ。まだ終点でもないはずだしそもそもそこが降りる駅でもない。

しかも、電車は動いていた。ますます意味が分からない。

立ち上がって先頭車両のほうへと向かうことにした。運転手を確認しておきたい。そう思って別の車両に移ろうとしたところ、扉が開かなかった。いくら力をいれてもダメだった。

いったい、何が起きているんだ?いま来た道を戻ろうと後ろを振り返ると、そこには

 

黒ずくめのゴスロリを着た少女が片手に杖をもって立っていた。

 

ごきげんよう

お嬢様然としたあいさつを目の前の少女からされた。

「君は誰だ?これはどういう状況なんだ?いったい何をしたっていうんだ?」

「質問を一気に投げてくるのはやめていただきたい。まあ、この状況であればそう思いたくなる気持ちもわかりますが」

その少女は何かを知っているようではあった。だったら早く教えてくれよ。

「そうですね、いわばここがあなたの分岐点とでも申しましょうか。あなたはこのまま先に進むこともできる。あなたはこのまま巻き戻ることもできる。どちらかを選択する権利が今のあなたにはあるのです」

「わからない。もっとわかりやすく言ってくれ」

「少しは自分で考えてみたらいかがでしょうか。と言っても時間もないので優しく教えて差し上げましょう。

 良いですか。あなたは本命の大学に落ちて別の大学に入学しようとしている。それをそのまま受け入れるのが選択肢のひとつめ。

 ふたつめは時間を一年前に巻き戻してもういちど最後の一年間をやり直し再挑戦できる。しかも今のあなたの記憶を持ち越したままで。

 そのどちらかを今あなたは選ぶことができるのです」

 要するにもう一度だけ高校最後の一年間をやり直せるっていうわけだった。本当かどうかは信じがたいが、この奇妙な状況に巻き込まれていることから察するにここでは信じることにした。

「俺はもうあの一年を繰り返したくはない。繰り返す必要もない。だからやり直しを選ばない」

「本当にそれで良いのでしょうか。ただ同じ一年を繰り返すだけなんですよ。周りだけ先に大学生になっている、なんてこともない。何のデメリットもなしに二回目を繰り返せるんですよ

 それに全く同じ一年なんです。だから出題される問題も同じです」

 そこまで言われるとそれは魅力的な話だった。なんせ答えを覚えてしまえば良い。

「ん?でも今の俺は答えも覚えていないし、問題ももちろん覚えていない。いくら記憶を持ち越せるからといってもこの状況じゃ結局同じだ」

「では、おまけです。あなたが今年受けた大学の問題そしてその解答はやり直しの際に持って行けるようにします。試験直前になってそれを覚えるだけで合格です。これで何のデメリットもなくなりました」

 流石に都合が良すぎる話だった。これで戻って騙されていたなんて事態に陥ったら冗談じゃない。

「おや、私が騙そうとでもしているとお思いでしょうか?そんなことはするつもりはございません。最もそんな口約束では無意味なのでしょうが。それでもこれは約束しましょう。

 そのうえでお考えください。どちらの選択を選ぶのか」

 完全に自分にとってメリットしかない話だった。でも、すでに俺の答えは決まっている。

「俺はやり直しを選ばない。このままの道を進む」

 

「ほう、理由をお聞かせ願えますか」

「正直なところさ、本命の大学だってうちの担任に言われていたから目指していたっていうことが大きい。目指すところがないならとりあえず目指しておいて損はない、って。

 俺はやりたいことがなかったから、その言葉を真に受けてただ受かるためだけに勉強していたんだ。だからこの一年間はずっと苦しかった。目標は確かに合格だったけど、そこに自分だけの理由はない。苦しくないはずがない」

「なるほど、あなたは志望動機が不純なものであった。そう言いたいわけですか」

「そうだ。何となく流されて目指しているだけだった。だから深く考えずに問題が解けるだけのテクニックと解くためのパターンを身に着けた。

 でも、最近になってようやく気付いたんだ。手先のテクニックだけでは解けない問題があるってことに」

 それは当たり前のことではあった。でもこれまで自分で深く考えもせずにただパターン化を繰り返してきた自分にとっては目から鱗が落ちる気づきだった。

「パターンにはめられないときには自分の自由な考えが必要になってくる。自分の考えなんて持っていなかった俺には突然やれと言われても無理なことだった。だから、落ちた。

 もちろんそのことに気づいてからはなるべく意識して考えるようにしていたさ。ただ、気づいたときにはもう時すでに遅しだったってわけ」

「では、なおさらもう一年やり直したほうが良いのではないですか。考え方の幅が広がるでしょう?」

「それじゃダメなんだ。高校までの内容だとどうしても限りがある。

単純に言えばもう飽きた。新しいことを俺は自由に学びたい」

「でも、一年待てばもっと良いところに──」

「もっと良いかどうかなんて入ってみて実際に学んでみないとわからないじゃないか。そこでやり直せるっていうのなら考えるけど」

「ぐぐぐ、私が提示できる分岐点はここだけなのです。それは出来ません……」

「ならもう決まりだ。俺はこのまま先へ進む。先へ進んで新しい考え方を身に着ける。

 それに、俺はもう待ち遠しいんだ。卒業旅行が」

 迷いはない。もう先に進むと決めたんだ。

「そうですか、仕方ないですね。私も素直に引き下がるとしましょう。

では、さようなら。あなたの道に光あらんことを」

そして視界が真っ黒に染まった。

 

気づくと俺は目的の駅のホームに立っていた。どうやら送り届けてくれたらしい。

「なんだったんだ、今のは」

 最後の最後に不思議な出来事に巻き込まれてしまった。最後の一年をもう一度やり直せる、そんなことはもうどんなことがあってもごめんだった。

 でも、もし本当にやり直しを選んでいたとしたら──

「やめよう、そんなことを考えるのは」

 

これが3月10日の出来事。今からもう十年くらい前のこと。あのときの選択を俺は後悔していない。今を満足に過ごしている。

 

おしまい